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学術会議の誕生と病根②左傾化の原点―「民科」の結成【資料・赤い巨塔(1970年) 】

資料データ
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左傾化の原点―「民科」の結成

戦後日本の科学者の活動は、大戦末期の原爆被害調査に始まった、という逆説めいた出発点を持っている。

すなわち、昭和二十年八月の終戦と共にわが国の学術研究、技術開発の活動は一時完全に停止するに至ったが、同時に広島、長崎に投下された原爆被災調査が徐々に判明するにつれ〔注1〕、その絶大な威力と惨禍に対する驚異は次第に原爆を製造し、投下したアメリカの科学、技術に対する深刻な敗北感に変化し、それが日本の学会をおおった。インフェリオリティ・コンプレックスである。この学会の深層心理は、後の学会の動きを解釈するに足る一つの因子となる。

出発点がこのようなものであったため、戦後の科学は自然科学であると人文科学であるとを問わず、原爆、原子力の問題に深いかかわりを持って、いや、この問題が基調となって、二つの方向を示しながら展開されたのである。

一つは、アカデミズムの立場から、過去の政治における科学性の欠除に対する批判と反省、学界における封建制の打破と民主化、研究の自由を主張する方向である。しかし、その心情はアメリカ科学への敗北感、羨望感や、自分のおかれたみじめな状況を訴える悲嘆の声が支配的であって、そこから将来への展望を開くことはほとんど出来なかった。後に一部が親米、知米的アカデミィとして脚光を浴びる〔注2〕が、講話後、向米一辺倒だとして左翼側から学界逆パージを受ける。

もう一つは、過去の日本における科学の欠除を半封建的な後進資本主義体制に基づくものと断定し、そうした社会基盤の変革なしに、真の科学を発展させることは出来ないとするイデオロギー的立場に立つ方向である。こうしたイデオロギー的立場に立った人びとが、主として民主主義科学者協会、あるいは続々と結成された大学、研究所労組の活動家たちであり、これらの人びとがまず進歩的科学運動のチャンピォンとなる。換言すれば反米アカデミィであり、科学運動とはいいながら、平和運動の側面を持つのである。

日本民主主義科学者協会(以下、民科と略称)は、右の二つの方向の後者によって、昭和二十一年一月十二日結成された。民科発足に至るまでの準備を分担したのは、主として戦前のプロレタリア科学研究所、唯物論研究会で活躍したメンバーだが、民科は単なるマスクス主義者だけでなく自由主義者をも含み、また社会科学者だけでなく自然科学者、技術者までも幅広く結集しようとしたところに重大な意義があった。今日の日本共産党路線の基調をなす統一戦線の原型、つまり、一九三〇年代の反ファシズム人民戦線の発想である。民科創立当初の幹事には自然科学者が約三〇%を占め、それも坂田昌一、武谷三男といった思想性の強いひと〔注3〕ばかりでなく、湯川秀樹、朝永振一郎氏も会員となっていた。

民科創立大会は、民科の性格について「科学活動における共同戦線体」と規定し、次の活動方針をかかげた。

  1. 科学精神を確立し、民主主義科学を建設する。
  2. 科学に対する民衆の意欲を満たし、たかめ、結集する。
  3. 反民主主義的な文教制度、政策、思想とたたかう。
  4. 新進科学者を養成する。
  5. 科学および技術を民衆の福祉のために動員する。
  6. 科学者、技術者の職能的地位を向上し、擁護する。
  7. 科学活動の完全な自由を獲得する。

右の方針の基調をなす考えを当時、民科書記局員であった渡部義通氏(三十九年九月、共産党除名)は大要、こう書いている。

「①戦前の日本の学問は科学的精神を欠いた似而非科学、御用学問であった。②ゆえに民主の敵であった封建的・軍国主義的・官憲的支配を完全に取り除く民主主義革命は、同時に科学の解放と進歩をもたらす、という発想にささえられており、……進歩的科学者の当面の任務は、一言にしていえば、民主主義革命のために科学運動をなすにある」〔注4〕

これが原点である。すなわち、戦後の科学運動は、科学における敗北への反省の上に祖国再建を実現する活動ではなくして、科学を革命のための手段と認識し、実践したのである。従って「民主革命」という目標を志向した啓蒙運動においても、すべてを圧倒したのはマルクス・レーニン主義であり、自然科学の分野でもマルクス・レーニン主義的立場からの科学論、技術論が一世を風靡した。この運動に最も強い指導力を持っていたのは、もちろん日本共産党であった。〔注5〕

民科には創立当時、哲学、政治経済、自然科学、歴史、芸術、教育、農業の七部会がおかれたが、二十一年後半になって自然科学部会に量子論研究会、理論生物学研究会、科学史談話会等の専門別研究会ができた。

昭和三十一年四月の第十一会大会を最後に、その全国組織としての実体を失なうに至る間、最盛期の二十九年末には全国百十支部、会員数一万一千と称された〔注6〕。民科の後者とされるのが後述する日本科学者会議(日科)である。が、いずれにしても民科が残した遺産は、わが国の学者にいわゆる進歩的、政治的、社会的関心を植えつけたことであった。しかし、それはけっして健全なものとはいえず、たとえば社会科学者、自然科学者たちが原水禁運動や原子炉問題、さらには原子力潜水艦寄港問題においてファナティックなまでの発言をするのも、日本学術会議がことごとく右の傾向に同調して、要するに反政府的、反体制的であるのも、すべて学界の戦後風潮によって培われた体質といって過言ではないのである。

そうしてまた、それが対米劣等感の逆顕示であることも、指摘せざるをえない。

 

〔注1〕原爆投下直後の八月八日、理研の仁科芳雄博士は広島へ飛び、原爆であることを確認。ひきつづき八月中に京都大学の荒勝文策、杉山繁輝氏らの一行、岡山医大の玉川忠太、都築正男氏を長とする陸軍調査班が相前後して広島を訪れ、治療と調査に当った。九月五日以後、京都大学総合調査隊は広島で診療と研究をつづけ、九月十六日に理学部班も到着した。一方、学術研究会議でも九月十六日「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を組織し、二十日に現地に調査隊を派遣している。このように終戦直後の学会活動は原爆災害活動だけであって、ほかは占領軍のいわゆる民主化政策、非軍事化政策のあおりを受け逼迫していた。
〔注2〕嵯峨根遼吉、田宮博、中谷宇吉郎氏等。
〔注3〕武谷、坂田両氏を特定したのは「物理学の異常な発展が……唯物弁証法を確立し」「現在理論物理学は……唯物弁証法の有効性を証明し、その内容の充実をもたらしつつある」「終局的には社会主義体制が全地域的規模において創造されねばならない」と抵抗の理論のマルクス主義的合理化を明言しているからである。
〔注4〕渡部「日本科学技術者の歴史的環境と民主主義科学者の当面の任務」(『民主主義科学』二一・三)
〔注5〕当初、日本共産党の科学・技術テーゼは、コミンテルン三二年テーゼに基づく、かつての講座派的分析をそのまま応用した粗雑なものであった。二十六年十一月の日本共産党文化部「日本の科学・技術の欠陥と共産主義者の任務」には、日本の科学技術の根本的欠陥として①技術の植民地性、②科学の非実践性、③科学技術のの跛行性、④技術の非科学性、⑤科学技術の人民の利益への背反、⑥科学方法論の欠除が指摘されており、人民生活の非科学性、科学・技術者の非社会性、教育の非科学性とブルジョア性の三つの後進性を生むものは、日本の支配体制の三つの構成部分――絶対主義天皇制、封建的土地所有、および前二者の擁護の下に成長した独占資本主義の相互作用であり「かかる支配体制への闘争によってのみ、日本の科学技術の進歩を妨げる桎梏(しっこく)が除去される」と主張している。
〔注6〕民科はコミンフォルム批判を機とする日本共産党の戦術転換、さらにスターリン批判によって組織動揺を起し、実体を失なうのである。しかし、民科系科学者個人の影響力は、なお衰えてはいない。

―「学者の国会」日本学術会議の内幕 時事問題研究所編,1970年より)

 

 

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