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【寄稿】通州事件と慰霊について

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寄稿者:憂国Wiki管理人

皆さんは「通州事件(つうしゅうじけん)」をご存知だろうか。
1937(昭和12)年07月29日に支那の北京東方にある通州(現在の北京市通州区)で発生した、冀東(きとう)防共自治政府の保安隊(支那人部隊)が日本軍の通州守備隊、通州特務機関、日本人居留民(朝鮮人含む)を襲撃して惨殺した事件だ。
日本人ならば決して忘れてはならない事件であり、後世の日本人に語り継ぐべきだと思うので、筆舌に尽くしがたい方法で虐殺された殉難者を慰霊するためにも、拙稿を寄稿したいと思う。

通州事件とは

明治維新以降、日本は近代化の道を進むことになるが、その過程において帝国主義政策を採った。非常に簡単に言えば、資本主義経済において独占資本(金融資本による資本の支配)を形成し、国家権力と結びついて軍事力を増強させ、軍事力による自国の領土または勢力圏を拡大し、他国を植民地とする政策だ。
逆に言えば、金融力と軍事力が弱いと金融力と軍事力に勝る他国の侵略を許し、自国を植民地にされてしまうことを意味する。
その上で、通州事件の直接的な要因となった支那事変(1937(昭和12)年07月07日に発生した盧溝橋事件が発端)と、その遠因となった満州事変(1931(昭和06)年09月18日)や、その満州事変につながる日清戦争(1984(明治27)年08月01日宣戦布告)、そして日露戦争(1904(明治37)年02月06日対露最終通牒発令)を正しく理解する必要がある。
ここでは通州事件についてのみ述べるが、ひとつだけ留意していただきたい点がある。
日本は大日本帝国として帝国主義政策を採り、朝鮮半島や満州を植民地化した。しかしながら、欧米列強の「植民地化」とは明らかに違い、現地のインフラを整え、現地民と一体となって農業や工業を増強するといった、「投資」をするものだった。よって、未だに「太平洋戦争は日本の侵略戦争だった」と勘違いしている人が多いが、自国の利益だけを一方的に貪る植民地支配は、日本は一度たりともしたことはない。
そして日清・日露戦争を経て朝鮮半島は日本に併合(日韓併合・1910(明治43)年08月29日)していたから、当時通州や満州で生活していた朝鮮人は、日本人の同胞であった。
そこで通州事件だが、当時通州には約500人ほどの日本人が住んでいた。冀東(きとう)防共自治政府は親日的な地方政権で、反乱を起こした保安隊は、日本人を保護する任務を帯びていた。まさか、親日政権下で自分たちを保護する保安隊に襲撃されるとは、夢にも思わなかったことだろう。しかも、日本軍の守備隊が作戦行動で出払った留守を突いて襲撃したのである。
保安隊は事前に襲撃する日本人の家を調べてチョークで印をつけ、29日午前零時に城門を閉鎖し、電話線を切断。一切外部と連絡が取れないようにしてから、未明から午後にかけて日本人家屋や日本旅館を集団で襲撃し、とても人間の仕業とは思えない方法で日本人約200名、朝鮮人約100名を虐殺したのだ。
ネットで通州事件を調べると、正視に耐えない画像が出てきて、驚かれた経験のある人もいるだろう。

一、私は7月31日午前8時頃、旅館錦水楼(きんすいろう・原文ママ)に参りました。錦水楼の門に至るや、変り果てた家の姿を見て驚くと共に屍体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。玄関の扉も家の中の障子も家具も取り毀(こわ)され門の前から家の奥まで見透すことが出来ました。
入口に於て錦水楼の女将らしき人の屍体を見ました。入口より廊下に入るすぐの所で足を入口の方に向け殆ど裸で上向きに寝て顔だけに新聞紙が掛けてありました。
本人は相富(そうとう)に抵抗したらしく、身体の着物は寝た上で剥がされた様に見え、上半身も下半身も暴露しあちこちに銃剣で突き刺したあとが四つ五つあった様に記憶します、これが致命傷であったでせう。
陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱して居ました。帳場や配膳室の如きは足の踏み込み場所もない程散乱し掠奪(りゃくだつ)の跡をまざまざ見せつけられました。
廊下の右側の女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があるを見ました。全部藻掻(もが)いて死んだ様でしたが銃殺の故か屍体は比較的綺麗であって唯、折り重つて死んで居りましたが一名だけは局部を露出し上向きになって死んで居ました。
室内の散乱は足の踏み場所もない程でありました。
次に帳場配膳室に入りました、ここに男1人、女2人が横倒れとなり或(あるい)はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。
女2人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残って居りました。 次に廊下へ入りました。階下座敷に女の屍体2つ、これは殆(ほとん)ど身に何もつけずに素っ裸で殺され局部始め各部分に刺突(しとつ)の跡を見ました。
次に2階に於て四五人の屍体を発見、これは比較的綺麗に死んでおり布団をかぶせてありました。唯脚や頸(くび)や手が露出しておるのを見ましたが布団をはがす気にはなれませんでした。
池に於て二三人の屍体が浮んで居るのを望見しましたが側へ行って見る余裕はありませんでした。

二、市内某カフェーに於て、
私は、1年前に行ったことのあるカフェーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが部室は散乱しておらずこれは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボックスの中に、素っ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺せられておりました。
カフェーの裏に日本人の家がありそこに2人の親子が惨殺されて居りました子供は手の指を揃えて切断されて居りました。

三、路上の屍体
南城門の近くに一日本人の商店がありそこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは胸腹(きょうふく)の骨が露出し内臓が散乱して居りました。

出展:通州救援第2連隊歩兵隊長代理 桂鎮雄・元陸軍少佐の証言より

法廷証第2499号: 宣誓供述書/ 桂鎭雄 : 1947|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

※読みやすいように難読語はカッコ内にかなを追加・漢数字は一部を除いて半角に修正

事件4日後の8月2日に現地入りした文藝春秋社・北京特派員の武島義三は、近水楼に足を踏み入れたときの様子を「玄関からそれに續(つづ)く廣間(ひろま)などは目茶苦茶で血沫(ちしぶき)は飛び、どす黒い血潮は餅を置いた様に厚みをもつて床の上に固まつてゐた」(『話』S12年10月号)と記している。
その他、保安隊(支那人)の虐殺ぶりは「非道」で片付けるには生易しいと思われるほど、凄惨を極める。また、1937(昭和12)年当時の日本国内の新聞を読むと、事件を知った国民が激怒していることが紙面からも伝わって来る。
そして激怒したのは日本人だけではなく、国内にいる在日朝鮮人も同じだった。

“徴兵令施行せよ”在京の半島人蹶起(けっき)す

東洋平和確保のため嵐を呼ぶ平津(へいしん)の野に堂々正義の進撃をつゞける皇軍の活躍は遂に半島人をも蹶起せしめて築地本願寺本派真宗朝鮮協会(特別委員長大谷尊由(おおたにそんゆ)師)常務委員李元錫(朝鮮読み:イ・ウォンスク)氏ら50名の在京半島人有志は3日朝9時から本願寺の1階ホールに「時局懇談会」を開き
「国家非常時に際しわれら半島出身者も座して黙視する能(あた)はず即時朝鮮に徴兵令を施行せられたし」
との決議をなし11時李元錫曹宏氏らが松平、小山貴衆院(貴族院・衆議院)議長に会見を求め右決議文を手渡した

出展:昭和12年08月04日 読売新聞 夕刊 2面
※漢字は当用漢字にし難読語はカッコ内にかな又は意味を追加・漢数字は半角に修正

現在の日韓関係や、在日朝鮮・韓国人からは考えられない話だが、これは事実である。
翌昭和13年に朝鮮に志願兵制度が導入されたが、応募者が殺到し、最高で50倍もの「狭き門」になったほどだ。
ちなみに手前味噌で恐縮だが、憂國Wikiでは「護國イベント」コンテンツを擁し、可能な限り有益だと思えるイベント情報を収集して公開している。
中でも、崔三然氏(元大日本帝国陸軍少年飛行兵・朝鮮戦争時空軍将校・北朝鮮出身)が講演する勉強会等のイベントもお知らせして来たので、氏から当時の貴重なお話を聴いた方もおられるだろう。

通州事件殉難者の慰霊を!

私がこの記事で読者にお伝えしたいのは、「通州事件を風化させず、7月29日に事件の殉難者に黙祷を捧げて欲しい」という点に尽きる。
今年は支那発の武漢肺炎(新型コロナウイルス)のせいで、靖國神社の「みたま祭り」が中止になっただけでなく、7月29日の通州事件慰霊祭も規模をかなり縮小して執り行われるようだ。
仮に現在がコロナ禍でなくとも、地理的・時間的に靖國神社に参拝し、通州事件慰霊祭に参加することが難しい人も多いことだろう。
この記事の読者がどこに住んでいるかは分からないが、7月29日に支那の通州で何の罪もない日本人が虐殺されたことを思い出し、ほんの1分、黙祷を捧げていただければ、私もこの記事を書いた甲斐がある。
また、くれぐれも誤解して欲しくないのは、この記事で支那人に対する憎悪を煽る意図は全くないということだ。
この記事を読み、ネット等で通州事件を調べ、激怒する人はいるかも知れない。日本人としてそれは当然の感情だと思う。しかし、80年以上前の事件を現代に持ち出して支那人を攻撃したり、排外主義的に扱うのは違うと考える。

留学生8割は帰国 一般支那人は平穏

通州における支那暴兵の日本人虐殺事件は内地の同胞に対して非常な衝動を与えているので内務省警保局では全国道府県警察部に命じて善良なる在留支那人に対しては十分に保護警戒を加える事にしているが、
現在東京、神戸、大阪各市を始め全国に在留する支那人は約2万6千人で、うち留学生が約3千8百人、この留学生は平年は夏期休暇のため半数くらい帰国するが、今年は事変のためすでに約8割の3千人くらいが帰国した。これは支那学生の多くは抗日教育を受けているので事変発生によって帰国を急ぐものが増えたと見られている。
これに反して一般の在留支那人は、約3万4千人のうち帰国したものはわずかに2千人くらい。これは日本人が大国民の襟度(きんど)を示して在留支那人に対して危害を加えるような事故もなく、官憲も善良なる在留支那人の生命財産に対しては公正なる保護を加えているので在留支那人は日本人を全く信頼しているとのこと。
また、支那人の中には「平穏に商売と生活ができるのは日本のお陰です」と国防献金をするものもあるとのことである。

出展:昭和12年08月10日 東京朝日新聞 夕刊 2面
※漢字は当用漢字にして句点を追加・難読語はカッコ内にかなを追加・漢数字は半角に修正

通州事件が発生した当時でさえ、日本人は支那人のあり得ない蛮行に激怒しつつも、国内にいる在日支那人に危害を加えることはなかったようだ。
日本人でも善人と悪人がいるように、支那人にも善人もいれば通州事件を起こすような悪人がいる。だから国内にいる善良な支那人に危害を加えることは、「悪徳」もしくは「恥」だと考えたのではあるまいか。
ともあれ、この記事の意図を読み違えず、軽率な行動は謹んで欲しい。

おわりに

すでに通州事件をご存知の方にしてみれば、「なにを今さら」と思われる内容だろうと思う。
そこで、二・二六事件(1936(昭和11)年02月26日発生)と支那事変、さらに軍神・杉本五郎中佐の遺書である『大義』をも取り上げて、ひとつ大いに語ってみようと構想を練ったのだが、書き出してみると超大スペクタクル巨編かつ映画化待ったなし!状態になりそうだったので、泣く泣く記事を削除した。
その代わり、まず普通の人は目にすることはないであろう当時の新聞記事等を引用したので、多少なりとも「記事を読む価値」は提供できたのではないか、と勝手に思っている。

 

今後、読者からの要望があったり、寄稿する機会があれば、杉本五郎中佐とその『大義』について書いてみようと思う。

汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、
尊皇精神ある処、常に我在り

出展:杉本五郎中佐 絶筆(遺品手帳より)

ちなみに、杉本五郎中佐は支那事変に出征され、通州事件が発生した1937(昭和12)年の9月14日、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘において散華された。
愛用の軍刀を持って敵陣地に突撃、奮戦中に敵の小銃弾・手榴弾を数発も身に浴びながら、軍刀を左手に持ち替えて杖代わりとし、はるか東方皇居の方向に正対して挙手敬礼したまま(立ったまま)絶命されたと伝えられている。

 

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