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学術会議をこう見る⑤『フラク会議に招かれて』【資料・赤い巨塔(1970年) 】

資料データ
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フラク会議に招かれて

東京教育大学助教授(1970年当時) 大島康正

大島康正 - Wikipedia

一九五六年の秋、私は大学の親しい同僚たちから強くすすめられ、また日本倫理学会から推薦されて、第四期会員選挙の第一部関東地方区に立候補した。

激戦の後どうにか当選できたが、そのとき学術会議の担当のM新聞のKという左翼記者が、新人会員としての私のことを紙面に紹介して、どう勘違いしたのか、民科(民主主義科学者協会)に近い線だと色づけてくれた。そこで後でよく考えてみると、どうもそういう誤解が当時の左翼有権者の一部に何となくあって、そのお蔭で私は当期の最年少会員として当選できたのではないかと思う。何故なら当時私は京都大学から東京文理科大学(後の東京教育大学)へ転勤して五年しか経っておらず、関東地方区での知友の数は比較的小数であった。また出馬の決意が遅れたため、有権者名簿ももたず、選挙運動に立ち遅れたいきさつも、当時の新聞に書いた(『毎日新聞』、昭和三十一年十二月十七日)。

それだのに一発で当選したから、誰よりも私自身が首をかしげたものだったが、後から思うと今述べたような誤解がかなり有力に作用したのではないかと思う。その証拠に、以後第四期在任中の総会や委員会における私のあけすけの反左翼的言動が祟って、次の一九五九年秋の第五期会員選挙のときには、第一部関東地方区は民科が正式に推してきたM氏と私との間で激戦となって、私はその組織の力を前にして、ものの見事に破れた。強いて弁解すれば、その年八月まで私はハワイ大学に行っており、帰国後まもなく急性腎臓炎に襲われて、投票開始日直前までの約一カ月を絶対安静の臥床を余儀なくされたという事情もある。しかし、もしそういう事情がなかったにしても、私はおそらく破れたであろう。何故なら、M氏の指導する大学院の修士課程(したがってまだ選挙権を持たない)の学生たちは、私のいわば公式な選挙本部とも言うべき、日本倫理学会事務局(東大倫理学研究室内)にまで押しかけてきて、M氏への投票を、同研究室の助手に訴えるすざまじさだったからである。

話をもう一度前に戻そう。一九五六年秋の選挙で私は意外にも当選して、翌五七年一月から新人会員となった。その一月の、第四期初の総会の第一日目に、私は今思い出しても奇異なというか、変てこりんなというか、たいへんに面白い体験をもった。それは、第六部の幹事で、当時雑誌『世界』などの左翼評論で著名だった初対面のF氏が、休憩時間にニコニコとして私に話しかけ、今夜つきあえと誘ったのである。

百聞は一見にしかず、私は当日の会議の散開後、同氏の指定した上野のお山の中華料理店へ足を向けた。行ってみると驚いた。各部を通して左翼学者として著名な人々が、ズラリと顔を揃えていた。F氏はその最上席に坐していて、明日の総会二日目にはどういう議題が出る予定、そのとき反動派のMやNがこういうかも知れない、それに対していま列席しているAは直ちに手を挙げて立ってこう反駁せよ、それを支持してBが次に立ってこう言え……という、細かい指示を与えていた。末席に列しながら私は、「何だ、これがいわゆるフラク会議というものか……」という思いを新たにした。そして、こういうお芝居をやる連中と戦わなければ、日本学術会議は駄目になると、ヒシヒシと感じた。

当時の私の体験では、日本学術会議は黙ってヒナ壇に並んでいることを光栄と感じて、議事の異様な進展に一言の異論も挿まない各学会の長老たちと、前夜の打合せでサクラを使って決議を強要する発言過多な日共系学者たちとの、奇妙な野合の場であった。そのなかで、一匹狼的な立場から左翼の提案にブレーキをかけたのは、森戸辰男、中山伊知郎、吉川幸次郎、そして及ばずながら末輩の私であった。そして次の選挙で、前三者は学術会議の左翼偏向に見切りをつけてもはや出馬せず、若い私は再出馬して、見事に落選したわけである。

(赤い巨塔 ―「学者の国会」日本学術会議の内幕 時事問題研究所編,1970年より)

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